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節電の街にて

今朝(23日)の余震連発は怖かった。震源は福島浜通りあたり。震度5+。都内は震度2~3程度だが(震度3ぐらいでは「またか…」で終わり。11日以降毎日余震が起きているので、揺れることにすっかり慣れてしまった)、震源地が原発の近くというので、緊張した。

先週は、計画的とは言えない計画停電のおかげで首都圏は大混乱。停電にまつわる混乱は、人災だと思う。仕事の関連部署が停電実施地区で、その現場は大変そうだ。23区内を中心に優遇されたエリアと、そうでないエリアの差が激しい。世田谷区のうちの町内は最初から停電対象外になっており、やがて世田谷区はリストから外れた。リストに載っていても、23区内のほとんどの地域は停電になっていない(荒川区、足立区では実施。それも格差として問題になっている)。優遇されすぎていて、申し訳ない。都心でも停電すべきと思うのだが。

自宅待機になっていた会社も、今週は通常通りというところが多いようだ。電車は本数が減り、特別ダイヤで動いている。うちの沿線(東急田園都市線)は急行がなくなり、各駅停車しか走ってない。極端な混雑もなくなってきたが、もしかして、都内から人が減っている? この連休中、よく見かけたのがスーツケースを持った人たちだった。東京から他の地方へ脱出するのかなと思った。子ども連れも多かったし。今日は渋谷でも、外国人をあまり見かけなかった。フランス、イギリス、ドイツ、オーストリア、他どこだっけ、いろいろな国が自国人に日本からの退避を奨励している。最初は過剰反応と思っていたが、野菜や水に基準以上の放射性物質が出たいま、外人さんたちの反応もオーバーではないと思える。

節電、節電で、駅構内もデパートもスーパーもコンビニも、照明を落としていて薄暗い。屋外の電飾を消した店が多いので、夜道がとても寂しくなっている。夜、246沿いを歩いていて、すれ違う人の顔が暗くて見えなかった。最近は皆、早い時間に帰宅するようになり、22時頃になると前後に誰も歩いていなかったりして、けっこう怖い。今までの明るさが異常だったのかもしれないが、それに慣れた者にとっては、夜の闇は本当に恐ろしい。

仙台に単身赴任している友人からメールがあり、東北各地の惨状をあらためて知る。自分たちは無事でも、沿岸にある工場は津波で壊滅し、そこで働く人々は避難生活を強いられ、家族が行方不明という人も少なくない。物資を送ろうにも燃料がなく、思うに任せないと。燃料不足はかなり深刻なようだ。そういった話を聞くと、「無事でよかった!」と無邪気に言えない。被災地は、我々がテレビで見聞きし、想像するよりも何倍も酷く、厳しい状況にあるのだと思う。

海外のメディアでは、日本のテレビや新聞では見たことがない画像や映像が使われている。確かロイターだったと思うが、福島の原発関連で放射能検査で隔離された中にしゃがむ避難者の女性とその外側にいる愛犬と思われるトイプードル、ぐったりした子を抱く泥だらけの若いお母さんの画像は、非常にショッキングだった。日本の報道は非常に偏っている。何を隠しているのか。隠すのは、報道だけではないね。東京電力も日本政府も皆、同じ。私が東電の一連の要領の悪い記者会見にイライラしていたら、友人が「東電は説明が下手な人をわざと表に出して、ヤバい事実をわかりにくく、遠まわしに少しずつ発表して人々の混乱を避けている」と言う。説明を難しくして問題をごまかすのは、政府、官僚、メーカーの得意技である、と。なるほど、そういう見方もあるのか。でも、東電サンって、そこまでの策を練る余裕があるのだろうか。

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いま、できること

昨年7月以来の更新。東京もかなり揺れたが、いまこうして私は自宅にいて、電気ガス水道も問題なく使える状況にある。余震は相変わらず続いていて、携帯電話の緊急エリアメールもときおりやってくる(誤作動しているらしく、嘘の情報もあるけれど)。

広い範囲の甚大な被害のようすが明らかになりつつあり、それを見ながら、いま、なんともいえない焦燥感を抱いている。阪神大震災では、東京は揺れなかったので、最初は大災害という実感はなかった。実家のあたり(北摂地域)も揺れたが、建物等は無事。家族の安否もその日の午後にわかったというのもある。あの災害がすごいと実感したのは、真っ暗な中、延々と上がる住宅地の炎の映像を見たときだった。あれは怖かった。涙が出た。そして、募金ぐらいしかできない自分にいらだち、悔しかった。

今回、東京は震度5弱。私は出先から戻り自宅で仕事中だった。テレビをつけていたが、急に緊急地震速報が出たような気がする。そして、最初はゆっくり、だんだんと揺れが大きくなり、冷蔵庫の扉がバーンと開き、本棚の本、CD、台所の棚の調理器具がガラガラと落ち、床に積んでいた新聞や雑誌が激しく散乱した。長い長い揺れだったが、最後のほうは覚えていない。愛犬まいっちを抱いて、部屋の真ん中で呆然としていたように思う。気がつけば、PCモニターが手前に倒れていた。キャスターのついたボックスが斜めに位置を変え、ベランダのかなり重い防音サッシが5センチ以上、開いていた(施錠はしていなかったが、きっちり閉めていた)。

テレビは一瞬消えたが、すぐついた。揺れが収まったと思ったら、また揺れる。東北が、関東が、とアナウンサーが緊張した声で連呼している。ベランダを確認。サッシは歪まなかったようで、開いた。植木鉢が1つ落下し、割れていないが土が散乱。首都高速と246がすぐ近くを走っているのだが、車の音が聞こえない。あたりは静かだった。それがすごく不気味だった。

固定電話(うちはNTTの光IP電話)、携帯電話はまったくつながらない。やがて東北の津波に関する報道が始まり、濁流にのまれる町の映像が流れ始める。録画ではない。LIVEだ。余震がどんどん来る。最初の揺れの30分後のが大きかった。震源が茨城沖。東北だけではないのか。非常事態だ。しかし、表に出るのも怖く、夕方までただ呆然とテレビを見ていた。携帯電話は使えないが、固定電話は4時すぎ頃からつながり、家族とようやく話せた。インターネットは問題なく使えたが、今朝まで迷惑メールが激減。スパムの送信元も被災した? 迷惑メールは海外アドレスが多いのに、それが減ったのはどうしてだろう。

耐震装置でガスは止まったもののメーターですぐに復旧できたし、電気水道は問題なさそう。原発関連で停電もあり得るようなので、もちろん節電しなくてはいけないが。余震はまだあるし、友人知人に何時間もかけて歩いて帰宅したという人も多いけれど、地震から1日経った昨日、電車もバスも本数は抑えているもののきちんと動いていた。世田谷区内で移動しただけだが(東急バス→世田谷線→小田急線)、電車もバスも空いていた。駅前はどこも人が多く、スーパーでは大量に食料品を買い込む人がたくさんいた。東急ストアでは、夕方の時点で水やカップ麺、パン類がかなり減っていたもののゼロではなく、ほかの食料はたくさんあった。東京は今日も、思った以上に平穏だ。津波の被災地の方々に申し訳ないと思う…。

深刻な被害が予想されるが、現在の状況が報道されないエリアも多い。先日仕事で訪れた、松島の方々は大丈夫なのだろうか。牡蠣の取材だったので、まさに目の前が海だった。近くを走る仙石線が脱線したと聞く。仙台市内にも友人がいる。安否はわからない。

いま、私にできることはなんなのだろう。阪神大震災のときもそうだったが、まず現地に行けない(バイク等で現場に乗り込んだ方もいたが…)。何か送ろうにも、交通がマヒしていて届かない。報道をただ見守るしかないのか。被害が酷くならないことを祈るしかないのか。いろいろ考えてしまうけれど、無事でいられたエリアの者は、まず、日々の職務(仕事であれ家事であれ)を淡々と、きっちりやらないといけないのだろうね。東京が機能しなくなったら、本当に日本全体が壊滅状態になる。昨日からさまざまなイベント、スポーツが中止になったが、国立劇場と演舞場の歌舞伎は今日、通常通りという。私も明日勉強会があるが、予定通り開催されるようだ。仕事も関係者が出勤できるならなんとか進むはず。停電がなければ、の話だけど。

明日は月曜日。どんな1週間が始まるのか。被災された方々が、一人でも多く助かりますように。

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